伝えたいこと





こんにちわ、宮本です。

今日は少し自分のことを書きたいと思います。

87ラボを立ち上げた宮本と大住は現在30歳
2人の関係は不思議なもので、
強いて仲が良かったわけでも、なんなら知り合いだったわけでもない。
大住は小学校時代から、全国に出ていて、
宮本はそれをすげーなと思って見ていた。
試合をすれば大住の学校が絶対的であり、
一方宮本はベンチメンバーとして、わずかなプレータイムで撃沈された記憶しかない笑

ある意味大住のキャラクター、フレンドリーさから始まった関係である

宮本は中学でバスケをやめた
高校ではクラブチームでお世話になっていたが
その時の練習試合で、部活と並行してとあるクラブチームに参加していた
大住と再会した

今でも覚えている
大住は僕のことを
あぁ、なんとなく覚えてなくはない
と言った笑笑

その後、会うことはない笑




次は、とある居酒屋で
お互い中学の集まりでばったりあった。
その時は、なぜか
おぉ、みや!!と気軽に話かけられる

なぜかはわからないが、大住にはなんとも言えない適当と包容力のような
独特の魅力がある

そして、一緒にバスケをしたり、連絡を取り、
試合を見たり

彼とバスケの話をするようになり
意気投合
立ち上げたのがこの87ラボになる
今は大住どっかいってしまったけど笑笑
彼の魅力、そしてバスケへの情熱に
背中を押されていたことがなんどもある
(中学時代は彼らに絶望に追いやられた記憶しかない笑)

そんな僕であるが、かれこれバスケコーチとして約10年がたった
人生の3分の1をコーチとして過ごさせてもらった
最初の2年が中学校のコーチとして
その後、中学を離れたが
教えてほしいといってくれる中学生に恵まれ、
その選手を3年間、数人を指導し、
その活動を知った教え子が集まってくれ、
TOKYO ANDERSENを立ち上げ
そこからまた友達伝え、先輩後輩伝えで多くの選手が集まり、4年活動した

色々あったが、最後は自分の力不足により
小さな歪みがどんどん広がり、修復不可能に陥った
自分は苛立ちを抑えられず、何度も苛立ちをぶつけ、衝突し、
最後のTOKYO ANDERSENの選手たちからは、全くよく思われていないと思う
自分としても、間違ったという反省ばかりである




今、相撲界やレスリング界で暴力、パワハラが問題になっているが、
精神的に選手たちを追い詰めたかもしれないとは思う
後になって、冷静になり、何であんなことをしたのか
何であんなことを言ったのか
と後悔したことは1度や2度ではない
ただ、暴力をふるったことはないし、誰よりも愛情を持ち続けていたこと
今でも、すべての選手に愛情を持っていることは自信を持っている

チームとはファミリーだ

Jリーグの鹿島アントラーズにジーコが残した有名すぎる言葉であり
いまもアントラーズに残るチームスピリッツの1つである

自分もそんなチームを目指し、いろんな活動をしてきた
そして、学生たちが、成長し、社会に貢献できる人間になるために
10年間努力をしてきたことには自信を持っている

ただ、最後の1年は突然何か歯車が狂ったような
噛み合わなさがものすごかった。
そして、自分自身も体調を崩しながらの活動で一杯一杯であり、
何か自分が大事にしていたものだったり、
バスケットボールへの情熱だったりを見失っていたように思う
そして、将来の自分を考える時間が増え、
(エゴや何かではなく、アンデルセンはお金をもらっていなかったので
今後の活動の続け方と純粋な自分の将来のこと)
選んだチョイス、方向性は、確実に選手のそれとかけ離れ、
苦しいものではあった。




自分は結果も出していないし、コーチとして有能ではないと思う
ただ、学生時代から外部コーチとして、活動させてもらい、
当時は多くのことで悩んだ経験がある。
それぞれ立場もあるし、自分も何も知らなかったから、介入しすぎたこと
また、純粋な指導力の未熟さがあったが
外部コーチ時代は

保護者との関係性
関係は良好であったが、辛い部分はあった
教員からの嫌がらせ
経験、知識の無さから雇われているという感覚がなかったことを反省
やめていく選手との関係
強くなる=激しい練習と考えていた
など

結果、手にしたものもあるが、失ったものもある
多くの方から、賞賛もいただいたが、
それと同時に
失わせてしまったもの、人もいる
しかし、それは償おうと思っても、償えないかったり、取り返せないもの
あると知った

その後、中学生数人を指導することになるが
そこでの経験がすごく大きなものとなった

当時の選手や保護者の方々には本当に感謝である




そして、アンデルセンにつながるが
アンデルセンは正直、失敗しかしていない
しかし、20歳前後になった中学時代の教え子たちに救われ、
彼らの力で前進することができた
本当に感謝している

それと同時に、中高生を育成

と始めた活動も、当時の彼らからは最初、反発もありながら、
揉めたりして、活動した
いつも日が変わるまでミーティングを重ね、
いろんなことを我慢したり、乗り越えてくれたことで
オリジナルな形ができたが、
それを継続することは残念ながら、できなかった

原因は、人間としての成長を求めながら、活動していくと始めたのに
だんだんスキルの提供にばかり、時間を割くようになってしまった
10年前から、変わらず伝え続けてきた
1人の人間として
という確固たるもの
また、自分自身も未熟ゆえに、彼らから学ぶという姿勢が
最後の2年間はころっと抜け落ちてしまっていたように思う

人間的成長が見えない中、スキルの提供に偏って
人数だけ増えたアンデルセンはもはやアンデルセンではなく
内部はものすごくいびつなものになっていた

最後は僕が
やめだ!!
と言って終わった

自分が大事にしてきたもの
そういうものは人それぞれある気がしている

しかし、それを自分は忘れずにいることができなかった




時代の変化や選手の変化
(確実に選手は話を聞けなかったり、興味がない、考えられない傾向には
なっていると思う)
また、自分が得られるもの
(多くの講習会やトップレベルの方々から得たもの)
に惑わさせるばかりで
毎日、大切な何かが抜けていたように思う

先日のエルトラックさんの講話
我々が忘れてはいけないもの
であったり

この1年ほど
バスケ含め、それ以外にも多くのコーチングや
講習会、講話、練習見学をさせていただいた
その中で、自分が
何をどう伝えればいいのか

わからなくなっていった

申し訳ないが、選手も二極化してきていると感じている
本当に崩壊している部活動や選手が多い
それは大人の責任であり、本当に無責任な指導者も多い
(自分が言えることではないことは承知)
また、選手たちも、それを変えてくれる
有能な指導者を待っている場合もある

それは、ある視点から見ると
自主性、考える力が本当に欠如した証でもあると思う

バスケットをやる前に抜け落ちてしまったものがある

最近は本当にそう感じる




その中で、多くの過去にアンデルセンに関わってくれた選手や
教え子に連絡をした

アンデルセンはとりあえず一区切りつけました

その返答がすべて
感謝を述べてくれたことに驚いた

なぜかというと
当時、理不尽だったり、厳しい言葉をかけた選手が
あの時間があったから
と言ってくれたこと

しかし、現実、アンデルセンが終わった今
その瞬間を迎えた選手からは
ネガティブな言葉しか出てこなかった
なんなら、返事がない人もたくさんいた
最初から興味がなかったのだと思う

もちろん状況もあるし、今振り返ると
という違いはある

でも、何かが終わった時に
素直に感謝の言葉出てくるのは

どんなときもバスケットボールに、そして支えてくれる
すべての人に感謝の気持ちを

と毎日のように伝えていた
からかもしれない




あー、そういえば、感謝なんて言葉この数年ほとんど伝えなかったなー
なんて思った

自分が一番大切にしていた部分を
スキルに偏り伝えることが減った結果

もしかしたら、それで
人として何か学べるもの、得られるものが違うのかもしれない
そう感じ、本当に後悔した

自分はアンデルセン最後の世代の
彼らに何も大切なことを伝えられなかったのだと

最後の最後に教え子に教わった
そんなダメな指導者である

正直、もうチームを指導する気持ちは今の所ない
ただ、そんな経験をしてきたことは、改めて貴重なのではないか
これからの時代を生きていく僕らは、
何か大切なものをそうやって見失ってないか

時代の発展により
過去の歴史や人としての信念、忘れてはいけないもの

それを失っていないか

と思い、僕は87ラボを発信していこうと決めた

きっと10年前の自分のように
何も知らずに、怖いもの知らずで指導者になる人もいる
社会人になり、何か壁にぶつかる人もいる
バスケで壁にぶつかる人もいる

そんな誰かにとって、ほんのすこしでも
自分の経験が有意義なものになってくれるのかもしれない。




伝えたいことを伝えていきたい
バスケットボールを通じて

そして、今度は忘れないようにしたい

感謝の気持ち

教え子から思い出せてもらったものを
これからは忘れずに発信していきたいと思う



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