Bリーグ 輪島射矢選手を追いかけてvol.2





輪島射矢選手
詳細はWikipedia
北海道出身のSGです。
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Twitterから拝借!https://twitter.com/41illiya
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こんにちは、宮本です。

さて、今回は
Bリーグ 輪島射矢選手を追いかけてvol.2です!!
vol.1はこちらから ↓ ↓ ↓
Bリーグ 輪島射矢選手を追いかけてVol.1

今回は出会いから中学までの想い出を少し
書かせてもらいます。

今まで語られたことのない輪島選手のことが
知れるかも…笑

僕が輪島選手を知ったのは小学校4年生の時でした。
ミニバスの試合会場で1つ上の先輩が突然僕にこう言ったのです。

「宮本!!外国人がいるぞ!!!!」

そうです、それが輪島選手でした。笑
今でも、鮮明に覚えています。
ブロック大会でよく会場に使われる小学校の体育館で
輪島選手はユニフォームではなく、ビブスを着て
新設チームで出場していました。
その時のカルチャーショックと言うのでしょうか。




多くの人が
あんなチーム知らないよ!
どこだよ!
となっていました。
(最近知ったのが、当時輪島選手が中心になり作ったそうです。)
そして、結構強かった。

あの時僕はエンド側の壁に張り付いて
輪島選手のチームの試合を見ていました。

今にもダンクするのではないかと
思うような迫力満点の外国人(輪島選手笑)のレイアップに
僕は度肝を抜かれました笑

当時輪島選手が165センチくらいと記憶しています。
僕は135センチくらい笑

そんなこんなで2年後、僕は中学に入学します。
僕らの世代ははっきり言って強かったです。
(僕はうまくはありませんでしたが、当時はまだ根拠のない自信を持っていました。笑)
ミニバスも北海道大会に出場しました。
その時、北海道優勝して、全国に出たのが
相棒の大住のチームです。

そんな感じで、僕らは期待されて
中学に入学しますが、僕は中学という壁の高さを知ります。




僕が進学した中学は僕の出身のミニバスは前述の通り強豪で
そのほかのミニバスも盛んでした。

進学先の中学は女子は全国大会に出場していて
男子も市内では名が知れたちょっとした強豪でした。

今まで、先輩を
〇〇くん!!
と呼んでいたのに、突然の先輩呼び笑
(今はあだ名や呼び捨て多数笑)

ちょっとビビりましたが
僕は姉がいたので、多くの先輩が可愛がってくれました。
小さかったし笑
今でも、輪島選手の世代のメンバーとは交流があります。

部活は規則で坊主
ミニバスの終わりから練習参加をさせてもらい
当時から坊主にしていました。

厳しい先生の目についた選手は体育館で練習させてもらえ、
あとは持久走という世界
僕はもちろん持久走組でした。

しかし、その体育館に僕はすぐに違和感を覚えます。

あれ?!あの外国人がいるーーーーーーー!!!
いやいや、イカツすぎだろ、なんで…
(射矢先輩ごめんなさい。笑)

びびりました。笑
学区違うだろ…
と笑




なんでいるんだ。笑

輪島選手の身長は当時からほぼ変わってないと思います。
そして、ガタイも中学生とは思えない幅!
バリバリのインサイドでした。
チームには185センチくらいのセンターの先輩がいましたが、
線が細かったため、インサイドの要は輪島選手だったように
僕は思います。

もうその時は先輩に怖さしかありませんでした。笑
中学生あるあるかと思います。笑

しかし、輪島選手は当時からムードメーカー的なところもあり
その風貌とはかなりのギャップのフレンドリーさを持っていました。
たまに姉に用があったりして、3年生の教室を通ったりすると
輪島選手が
おー!!宮本!!!
と僕をよく持ち上げて遊んでいました。
多分覚えてないでしょう。笑

結果僕は先生に怒られるのです。笑
(用がない限り、他学年の廊下を歩くことが禁止されていました。)
用あったのに、輪島選手のせいでとんだとばっちり笑

中学バスケ部はそりゃー、まー、よく走るチームでした。笑
根性があれば全国に行けるそれくらいの先生の熱さでした。
今はちょっともうNGなやつですね。笑
当時はもう嫌で嫌で笑

僕は鮮明に覚えています。
ある練習試合で僕はスコアを書いていました。
(そういうの率先してやってポイント稼ぐ生徒笑)




輪島選手はスタメンで試合に出場
輪島選手は今でこそBリーガーですが、
当時の中学で輪島選手はエースではなく、ファイター的な立ち位置でした。
ポストでボールもらってよくスピンムーブしていましたね。笑
そのエナジーとスピードはすごいのですが
そのあとのシュートがまた雑で…笑
ディフェンスも勢い任せでよくファウルしていた印象があります。笑
リバウンドの迫力はすごかったですね。

チームには輪島選手よりうまく速くて飛べて
かっこいいエースの先輩がいて、その先輩がスコアラー
ちょっと日本人離れしてました。

先ほど紹介したビッグマンは外からシュートタッチがよく、

PGにはUCLAカットが好きでいつもそのパターンから
左コーナースリーを練習していた左利きの先輩
そして、他にもシューター、170後半の控えのセンター
ハードワークできるセカンドガードと
バランスのとれたチームに僕は感じていました。

それで、まー、いつも先生に怒られるわけです。
輪島選手が笑
ちょっと無謀なところがね。笑
迫力はあるんだけど笑

僕からすると巨大な輪島選手が
ものすごい怒られるわけです。
スコアブックとペンを握りしめ僕は
まじかよ…と思って輪島選手を見ると

輪島選手は激怒している先生から
全く目をそらすことなく、大きな声で先生の言葉に答えていました。

本当に先生は厳しくて

生活面の指導なども厳しかったです。
挨拶を大きな声でしないとやり直し
集合のダッシュが遅いと解散してやり直し
話を聞くときは目を見て、動いてはダメ
ゴミが落ちてたら拾う

昔ながらの先生という感じで。
でも、当たり前のことで大切なことをこれでもか
というくらい教えてくれました。
ひたすら走るのだけは嫌でしたが笑

でも、いろんな意味で今は
あの先生に指導してもらってよかったな
とぼくは感じています。

自分や家族よりも部活を優先する先生でした。
学校全校生徒の名前を覚えている
という今では考えられないような
熱い先生でした。




よく輪島選手ともその先生の話にもなります。

そういう環境でできたからこそ
今でもこうやってバスケを通じて
先輩と交流を持てているのだと最近すごく感じます。

そういう魂みたいなものが
僕らには宿っているんですね。

当時の指導がいいか悪いかわかりません。
(いや、悪いか笑)

でも、先生は他にもBリーガーを育てています。
スキル以上にハートや人を育ててくれたことが
輪島選手がプロになり、活躍している
一つの力になっていると僕は思います。

僕が入学して初めての大会が4月にあるわけですが、
そこで輪島選手たちが躍動します。

輪島選手たちはベスト8で優勝候補のシード校と対戦。
そこまでは順当に勝ち進みました。
シード校はエースは2年生で、翌年全国大会に出場します。

そうです。
以前、ブログに書いた
伊藤大司選手が出場した全中です。
そのブログはこちら




会場もシード校の学校で、今まで勝ったことがない相手だったと
記憶しています。
輪島選手たちはそのチームに快勝
もしかして、これは…このままいけるのでは?!と若干思いました。
それくらいものすごい試合で、
かっこいい勝ちっぷりでした。

続くベスト4決めの試合で残念ながら僅差で敗退

ただ、その試合も激戦でした
その試合僕が小学校から仲がよく、
いつも帰り道おんぶして帰ってくれた笑
中学からバスケを始めたS先輩
ポジションセンター
がなぜか終盤にコーナースリーを決める!!

という衝撃がありました。笑
輪島選手がファールアウトして出場した記憶笑

その大会をベスト8で終了し、輪島選手たちは
中学最後の試合に挑みます。

その間に、謎のディフェンスシステム
スネーク
というディフェンスにトライするも失敗笑

そして、夏の大会、ただ応援していただけの僕も
号泣する結末に

僕が人の試合で初めて泣いた12歳の夏でした。



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